Partager

第3話

Auteur: 狐狸
last update Date de publication: 2025-06-04 13:55:11

アイリスが辿り着いたのは、城の巨大な厨房の奥まった一角にある薄暗い洗い場だった。

そして彼女の眼前には、昨夜の饗宴で使われたであろう無数の皿、銀食器、そして焦げ付きのこびりついた大鍋の数々。

それらが、逃れようのない今日の最初の労役として、アイリスの来訪を音もなく待ち構えていた。

しかし、その絶望的な光景を前にしても、アイリスの表情に深い陰は差さない。

彼女はそっと、一番手前にあった陶器の皿に指先で触れると、旧知の友に囁きかけるように、柔らかな声を紡いだ。

「おはよう、わたしのお友達」

その声には、深い孤独と、だからこその愛おしさが滲んでいる。

「今日もお世話になりますね。物言わぬあなたたちだけが、唯一、心を許せる味方だから」

自嘲ともつかぬ微笑を唇に浮かべ、アイリスは冷たい水に手を浸し、山積みの食器の一つを取り上げた。

そして、皿を洗いながら、ごく小さな、ほとんど吐息にしか聞こえぬほどの声で、懐かしい歌を口ずさみ始める。

それは、遠い昔、優しい母が彼女を腕に抱きながら、子守唄のように幾度となく歌ってくれた旋律。あまりにも多くのものを奪われ、虐げられてきた彼女にとって、その温かな記憶だけが、今もなお色褪せることのない、唯一無二の心の灯火であり、か細い魂を支える最後の砦なのだった。

「~♪」

懐かしい母の歌を口ずさむうち、アイリスの心はいつしか過去へと遡っていく。

陽光に満ち溢れ、優しい母の愛に包まれていた、あまりにも短く、そして輝かしい日々。それは、手の届かぬ夢の残照。

しかし、その温かな記憶は冷たい影によって断ち切られるのだった。

──そう、全ての歯車が狂い始めたのは、母が、この世を去ってからだった。

かつて、アイリスは次代の光とさえ囁かれた正真正銘の王女であった。母である王妃が存命だった頃は、彼女の周りには常に人々の優しい笑顔と、温かな言葉があった。

しかし、その母が儚くも病に倒れ、天へと召されてから数年も経たぬうちに、父である国王は新たな王妃を迎えた。それが、アイリスの運命を底なしの闇へと突き落とす、全ての始まりとなる。

新たな王妃──アイリスにとっての継母は、美しく気高い容貌とは裏腹に、酷薄で嫉妬深い心を秘めた女だった。

彼女は、先代の王妃の忘れ形見であり、その面影を色濃く宿すアイリスを、忌むべき存在であるかのように異様に疎み、憎んだ。

その執拗なまでの憎悪は、日を追うごとに形を変え、アイリスから王女としての全ての権利と尊厳を一つ、また一つと容赦なく剥ぎ取っていった。

豪華な衣装や宝飾品は取り上げられ、教育係も侍女も遠ざけられ、ついには城の片隅の埃っぽい小部屋へと追いやられた。

そして、父である国王は……。

新たな后の邪な囁きに耳を貸すばかりか、冷酷な本性を見て見ぬふりをするかのように、日に日に娘への関心を失っていった。継母がアイリスにどれほど理不尽で残忍な仕打ちをしようとも、それを咎めることも、庇うことすらしない。

その沈黙は、事実上の黙認であり、アイリスをこの城におけるただの召使い以下の、名もなき存在へと貶める最後の決定打となったのだった。

かくして、王国唯一の王女であったアイリスは、継母とその取り巻きたちから虐げられるだけの、声なき影として生きることを強いられるに至ったのである。

母の面影を胸に抱き、その懐かしい歌の旋律をくちびるに乗せるうち、アイリスの心はしばし現実の冷たさから解き放たれ、温かな追憶の光に包まれていた。

(お母様……もし、今もここにいてくださったなら……)

淡い願いが、小さなため息と共に歌声に溶け込もうとした、まさにその時──。

「──おいっ!そのような場所で、何をふざけた歌を口ずさんでいるのだッ!!」

突如として、鼓膜を突き破るかのような凄まじい怒号が、厨房の冷たい空気を激しく震わせた。それは、一切の慈悲も許容も含まぬ、ただただ純粋な怒りと侮蔑に満ちた声。

アイリスの華奢な肩がびくりと跳ね、口ずさんでいた母の歌は途切れ、彼女の瞳からは一瞬にして追憶の柔らかな光が掻き消えた。

恐る恐る、そして凍りつくような予感に身を強張らせながら、アイリスがゆっくりと声のした方へ振り返る。そこには──

「薄汚い女の血を引いているだけあるな……鬱陶しいことこの上ないわ」

威圧的な影が、仁王立ちになっていた。

冷酷なまでに整った顔立ちに、常に他者を見下すかのような険しい眉。

磨き上げられた黒檀のごとき硬質な瞳でアイリスを射抜くように睨みつけているのは、この王城の秩序を司る、王宮長官グレゴリーその人であった。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛   第68話

    「ふんふん、ふーん」 カイルは一人、城の地下へと続く階段を降りていた。ジェームズが向かったであろう書斎や、リリーが感じ取る魂の残響など、彼は信じない。物事の真実は、いつだって埃と瓦礫の下に眠っているものだ。それが元騎士である、彼の現実的な哲学だった。「やれやれ、この城も主と同じで古ぼけてやがる。何千年ものの骨董城なんだ?ここは」地下はひどく湿っぽく、黴と古い土の匂いがした。壁からは水が染み出し、床には幽霊蜘蛛の巣が、びっしりと張られている。「おっと失礼。スケスケ蜘蛛のお嬢さん方。こんな薄汚いとこに住んでると美容に悪いぜ?まあ俺ほどの名物件な、らどこにいたって輝いちまうけどな」カイルはそんな光景に、心底うんざりした顔で悪態をついた。「しっかし、こんなじめじめした場所は、気分まで滅入る。俺のこの国宝級の顔が、さらに腐っちまうだろ。しょうがねえ。俺様の美声でこの陰気な城を少しは清めてやるか」彼はそう言うと、どこで覚えたのか陽気な酒場の歌を、鼻歌で歌い始めた。その場違いに明るい旋律が、薄暗く静まり返った地下通路に虚しく響き渡る。彼は腐って開かなくなった扉を、容赦なく蹴破りながら進む。「はーっ!いちいち扉が腐ってやがる。あの引きこもり公爵は、城の手入れって言葉を知らねえのかね。まあおかげで、俺の騎士時代のキックが錆びてねえって証明にはなるか」彼は瓦礫の山をかき分けながら、独り言を続ける。「どれもこれもガラクタばかりだな。こんなもん大事に溜め込んでるから、心までカビが生えるんだ」そうやって軽口を叩き続けながらも、彼の目はただ一つの価値ある手掛かりを見つけ出すため鋭く、そして冷静に輝いていた。カイルは次に、城の厨房へと足を踏み入れた。そこは巨大な石窯がある、だだっ広い空間だった。しかし、何百年も火が入れられていないのだろうその窯は、ひやりと冷たく

  • 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛   第67話

    (これ、は──)リリーの意識は、眩い光に包まれた。それは冥府の国で、は決して見ることのできない、生命力に満ちた太陽の光。彼女が見ている光景は、、生者の世界の美しい庭園だった。色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥たちの歌声が響き渡り、風は花の甘い香りを運んでくる。(これは、誰かの心象風景……?きっとそうだわ。誰かに忘却された、悲しい記憶の欠片……)その庭園の木陰で、ま若き麗しい青年が愛用の竪琴を奏でていた。その表情は穏やかで、喜びに満ちている。彼の前には、一人の美しい女性が座り、その旋律にうっとりと耳を傾けていた。「その音色、とても素敵ね。でも、もう少しだけ……そう、春の最初の蝶が舞うような、軽やかさが欲しいわ」女性が楽しげにそう言うと青年は優しく笑った。「春の最初の蝶が舞うような軽やかさ……うーん、君はいつも難しい注文をするね。まぁいいさ。やってみよう」青年が奏でる、軽やかな旋律。その音色に、リリーははっとした。(こ、この旋律は……!)間違いない。これは城で絶えず流れている、あの物悲しい旋律。でも違う。全く違う。この記憶の中で奏でられる歌は、悲しみの響きなど、微塵も帯びていない。それは愛する人への喜びと、未来への希望に満ちた、明るく優しい恋の歌だった。青年は竪琴を奏で終えると、満足げに微笑んだ。「どうだろう、エララ。今の旋律は。君の言う春の蝶のように聞こえたかい」エララと呼ばれた女性は、楽しそうに悪戯っぽく笑う。「ふふ、そうですね。蝶というよりは、少し慌てん坊の蜂さんのようでした」「蜂か。それは手厳しいな」

  • 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛   第66話

    ジェームズとカイルがそれぞれの調査へと向かった後、リリーは一人城の静かな回廊に佇んでいた。「うーん、このお城、とっても古いですわ……私よりも……あれ、私って何歳でしたっけ?」 彼女の目的、は文献や物理的な証拠ではない。この城の石の一つ一つに染み込んだ、公爵の魂の痕跡、そのものを辿ること。それができるのは、幽霊である彼女ただ一人だった。リリーは、アイリスのあの悲しげな、しかし決意に満ちた瞳を思い出す。「姫様のためにも頑張らなくては!」彼女はそう小さく呟くと、そっとその半透明の目を閉じた。そして意識を研ぎ澄まし、この城に渦巻く感情の流れに耳を澄ませる。「とてもたくさんの野良幽霊が、住み着いてますわ……」怒り、後悔、諦念、そして深い悲しみ……。無数の感情の残響が、彼女の魂に流れ込んでくる。しかしその中でもひときわ強くそ、して複雑に絡み合った想いを放つ場所があった。それはやはり、あの未完の旋律が、永遠に響き続ける音楽室。リリーは目を開けると、迷うことなくその場所へと、ふわりと漂い始めた。そして、天井をすり抜け、壁をすり抜け、色々とすり抜けること少し。無事、音楽室に着いたリリーは、音楽室の最も奥に置かれた、巨大なピアノの前に立った。「とても立派なピアノですこと……」黒檀と骨で作られたその荘厳な楽器からは、他のどの楽器よりも強く、深い感情の残滓が放たれている。彼女はおずおずと、その半透明の手を伸ばし、そっと鍵盤に触れた。すると、ピアノの側面が音もなく滑らかに開き、中から一つの隠された引き出しが現れた。「こ……これは!?」その引き出しの中に、ただ一冊だけ、古びた楽譜が眠っていた。

  • 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛   第65話

    落下するジェームズ。ガシャンという派手な音を立てて、ジェームズは石の床に叩きつけられた。その衝撃で彼の骨の身体は、無惨にもバラバラになってしまう。「痛たた……わたしの気品あるボディが、あちこち外れてしまったではないか。ああ、我が麗しの肋骨が一本足りぬ……」彼は暗闇の中で、自分の骨を探しながら、情けない声でそう愚痴をこぼした。やがてジェームズは、なんとか自らの身体を組み立て直し、立ち上がる。そして自分の眼窩から放たれる青白い光を頼りに周囲を見渡した。「ううむ……ここは……?」そこは下室だった。空気はひどく乾燥し、何千年もの間積もったであろう、分厚い埃が全てを覆っている。壁には色褪せた古い星図がかけられ、腐りかけた木の机の上には、用途の分からぬ奇妙な道具が並んでいた。「かなり古い場所のようだが……」そして部、屋の奥には石でできた棚があり、そこには風化しかけた無数の巻物が眠っている。ここは間違いなく、何千年もの間、誰一人として足を踏み入れていない場所だった。ジェームズはその光景に息を呑む。「……!ここは……まさか古代の書庫か?オルフェウス公が心を閉ざされるよりずっと昔の……」彼は自らの失態が、とんでもない発見に繋がったことを悟り、興奮にその骨の身体を震わせる。「な、なにか手掛かりが見つかるかもしれん!これは好機!公爵には悪いが、調べさせていただこう!」ジェームズは慎重に、そして丁寧に古代の書庫を調べ始めた。しかし、何千年という時の重みはあまりに過酷だった。「うぅむ、脆い……流石に

  • 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛   第64話

    「うぅむ……手掛かり、手掛かりか……」ジェームズは一人、城の薄暗い廊下を進んでいた。彼の目的はただ一つ。オルフェウス公の書斎を見つけ出すこと。その骸骨の顔にはいつもの冷静さに加え、微かな焦りの色が浮かんでいる。──何故、こうなったのか。彼の思考は、数時間前の作戦会議へと遡る。アイリスの清らかな歌声が止んだ後、従者たちは確信していた。悲しい唄にこそ、公爵の呪いを解く鍵が隠されているのだと。そして彼らはアイリスを囲み、これからどうすべきかを話し合った。カイルは「歌の正体が知りたいならさっさと公爵に直接聞けばいい」と言い、リリーは「いいえ、きっと公爵様ご自身も、忘れていらっしゃるはずですわ」と反論した。そして最終的にジェームズの提案により、三人は手分けしてこの歌に関する手掛かりを、探すことになったのだ。ジェームズは文献を。リリーは魂の痕跡を。そしてカイルは物理的な証拠を。それが、彼らの出した結論だった。「必ずや、姫様の為に手掛かりを探してみせん!」ジェームズは、気合を入れなおすと、目の前の探索に集中する。この広大な城のどこかに、必ずあるはずだ。公爵の失われた記憶の断片が記された、書斎が。彼は主君のため、そして何よりあの孤独な姫君のため、に固く決意を固める。そうして、埃の匂いが満ちる長い回廊を、一人進むこと暫く。彼は骸骨の顔を左右に向けながら、呟く。「……しかし見事なまでに誰もいないな。オルフェウス公が従者を一人も雇わぬ奇特な御方というのは本当であったか」それは彼が耳にした噂だった。永い時を、この古城でたった一人孤独に暮らす物悲しい公爵の話。ジェームズは記憶の糸を、手繰り寄せようとする。「あれは誰から聞いた話だったか。王子の城の庭師の霊だったか。それ

  • 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛   第63話

    ジェームズはカイルの、その不遜な態度に眉をひそめた。 「カイル、貴様。またしても姫様の許可なく、私室に入り込んだか。その無作法を叩き直してくれる」 その声には静かな怒りが宿っている。 「そうですわ!姫様は、お一人で静かにお考え事をなさっていたかもしれないでしょうに!少しは遠慮というものをなさい!」 リリーもまた、ぷんぷんと怒った様子で、カイルを睨みつけた。しかしカイルは、そんな二人の怒りを気にも留めない。彼はやれやれと肩をすくめると、飄々と言い返した。 「おやおや、揃いも揃って朝から元気なこったな。骨董品に透明お嬢さん。俺はただ、姫様が退屈してないか見に来てやっただけだぜ。二人こそ、俺と姫様の甘い時間を邪魔しに来たんだろう?嫉妬は見苦しいねぇ」「甘い時間ですって……?」リリーが、呆れたようにその言葉を繰り返す。カイルはその反応を面白がるように、肩をすくめた。「そうさ、甘い時間だ。これから始まる、陰鬱で面倒で成功するかも分からない、公爵様の呪い探し。こんな面倒くさくて成功しないであろう、甘美な時間の相談をしていたのさ。羨ましいか?」その言葉を聞いた二人は、盛大にため息を吐いた。ジェームズが気を取り直して、アイリスへと向き直る。「姫様。まず我々がすべきは、情報収集かと。オルフェウス公がいつから心を閉ざされたのか。生前どのような御方だったのか。あの大書庫の館長殿に改めてお話を伺うのが筋でしょう」「ジェームズ、それも大切ですけど……。でも、もっと公爵様ご自身の心に触れるべきだと思います。このお城に満ちる悲しみそのものが、きっと重要な手がかりのはずですもの」リリーがそれに続く。「おいおい真面目かあんたら。文献調査に、感情論かよ。そんな悠長なことしてたら、姫様の方が先に腐っちまうぜ」カイルのその不謹慎な言葉に、リリーがあなたと一緒にしないでと睨みつけた。アイリスはそんな三人の議論を、静かに聞いていた。そして彼女は自らの気づいた、最も重要な事実を告げる。「お三方ともありがとうございます。ですがわたくし……一つだけ確信していることがあります」彼女のその凛とした声に、三人がはっと彼女を見る。「このお城に流れる、あの竪琴の曲。あれはわたしの知っている、唄なのです。公爵様の呪いとわたくしの知っている唄。それがきっと、何かの手掛かり

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status